トラストとは:デジタル社会の「信頼性」を定義する

はじめに:なぜ今、「トラスト」が問われているのか

私たちは今、かつてない「信頼の危機」に直面しています。

デジタル(digital)社会と生成AIの急速な進展は、私たちの生活や企業活動を飛躍的に便利にしました。IoT(Internet of Things)機器の普及により、あらゆるモノがネットにつながる最新の環境が整いつつあります。しかしその一方で、情報の真偽を見極めることが極めて困難な時代へと突入しています。巧妙なディープフェイク、改ざんされたビジネス文書、なりすましによる詐欺。これらが横行することで、社会全体の「信頼の前提」が揺らぎ始めています。

これまで当たり前だった「目の前の情報は正しい」という前提が崩れつつある中、企業や個人がこのデジタル社会を安心して生き抜くためには、新しい「トラスト(trust)」の概念を理解し、適切なソリューションを実装することが不可欠です。

本記事では、DX(デジタルトランスフォーメーション)の根幹を支える「デジタルトラスト」について、国際的な定義や最新の研究報告、そして2026年を見据えた技術動向を交えながら、その分野やプロセスを体系的に解説します。

第1章 デジタルトラストとは

1-1 「トラスト(trust)」の多角的な定義

「トラスト(trust)」を直訳すると「信頼」や「信用」となりますが、デジタル空間におけるトラストは、文脈によって様々な意味を持ちます。実は、日本の国内法上では「トラスト」自体の明確な定義はまだ定められていません。

しかし、世界的な基準や国内の研究機関においては、以下のような定義づけがなされています。

① 国際的な定義(UNCITRALモデル法における service)

国際連合の国際商取引法委員会(UNCITRAL)が取りまとめたモデル法では、「トラストサービス(trust service)」について定義しています。

「トラストサービス」とは、データメッセージの一定の品質を保証する電子サービス(service)を意味し、電子署名、電子印鑑、電子タイムスタンプ、ウェブサイト認証、電子アーカイブ、電子書留配送サービスの作成・管理方法を含む。

つまり、国際商取引のルールにおいては、データの「品質保証」を行う具体的な電子サービスおよびソリューションの総称として扱われています。これにより、製品やサービスの信頼性が担保されます。

② 社会・経済的な定義(JST-CRDS報告書)

国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)の研究開発戦略センターによる報告書(2022年9月)では、より心理的・社会的な側面から定義されています。

トラストは相手が期待を裏切らないと思える状態である。リスクがあるとしても、相手をトラストできると、安心して迅速に行動・意思決定ができる。トラストは協力や取引のコストを減らしてくれる効果があり、人々の活動を拡大し、ビジネスを発展させ、ビジネスの生き死にを左右する要因にもなる。

ここでは、トラストが単なるセキュリティ技術ではなく、ビジネスのスピードを上げ、経済活動を活性化させるための「エンジン」として機能することが示されています。

1-2 本サイトが考えるトラストの本質:「デジタル証明」

では、私たちはこのトラストをどう捉え、利用すべきでしょうか。 当サイト「Digital Trust Hub」とも連携している「デジタル証明研究会」では、検討の結果、トラストの本質を「デジタル証明」と捉え、以下のように定義しています。

  • デジタル証明: デジタル上の情報の質の保証
  • デジタル証明基盤: デジタル証明を実現するための基盤、デジタル空間における安心・安全の共有基盤

ここで重要なのは、「デジタル証明基盤」という考え方です。 これは単なる技術(テクノロジー)や製品だけを指すのではありません。制度やルール、それを運用する組織・体制などの集合体(※制度・技術等の集合体)であって初めて機能するものです。

物理的な世界で例えるなら、私たちが契約書に安心してハンコを押せるのは、「印鑑」という道具があるからだけでなく、「印鑑証明制度」や「法律による保護」、「裁判所などの執行機関」といった社会基盤が存在するからです。

デジタル空間においても同様に、一定の合意(事前の契約や規約等)がない全くの第三者との間でも、「情報が実在する」「真正(本物)である」「改ざんされていない」といった事実を確認できる「制度的保障(および社会基盤)」が必要なのです。これこそが、私たちが目指すデジタルトラストの姿であり、企業が社会に向けて提供すべき価値です。

1-3 デジタルトラストの構成要素

この「デジタル証明」を具体的に成立させるためには、いくつかの技術的要件(特性)が必要です。

  • 実在性(Identity): 「誰が」行ったのか。アクセスしているユーザーやIoTデバイスが、主張通りの本人であることを証明する要素です。
  • 真正性(Authenticity): 「本物である」こと。データや文書が作成者の意図した通りのものであり、偽造されたものではないことを指します。
  • 完全性(Integrity): 「改ざんされていない」こと。データが作成されてから現在に至るまで、第三者によって不正に変更されていないことを保証します。
  • 可用性(Availability): 必要な時にいつでもデータやシステムが利用できること。どんなに安全でも、使いたい時にサイトがダウンしていては信頼できません。
  • プライバシー(Privacy): 個人情報や機密情報が適切に管理され、本人の同意に基づいて取り扱われていること。プライバシーポリシーの遵守は必須です。

これらの要素に対し、「トラストアンカー(信頼の起点)」と呼ばれる第三者機関(認証局など)や、法的な裏付け(電子署名法など)が介在することで、社会的な効力を持つトラストが形成されます。

第2章 デジタルトラストの必要性

2-1 デジタル社会における信頼の役割

デジタル社会において、トラストは「通貨」のような役割を果たします。通貨が信用によって流通するように、データもまた、トラストがあって初めて流通し、価値を生み出します。

もしデジタルトラストが存在しなければ、どうなるでしょうか。
企業はメールで届いた請求書を信頼できず、わざわざ電話で問い合わせて確認したり、原本を郵送させたりするでしょう。オンラインでの高額取引は怖くてできず、重要な契約はすべて対面に戻ってしまうかもしれません。これでは、DX(デジタルトランスフォーメーション)のプロセスは完全にストップしてしまいます。

JSTの定義にもあったように、「相手をトラストできると、安心して迅速に行動・意思決定ができる」ようになります。社会全体の「信頼の前提」が揺らいでいる今、トラストは社会インフラそのものです。水道からきれいな水が出ると信じているから安心して飲めるのと同じように、デジタル空間の情報が正しいと信じられる環境(トラスト基盤)があって初めて、私たちは安心して経済活動を行うことができます。

2-2 デジタルトラストがもたらすビジネスの利点

デジタルトラストを確立することは、単なるリスク回避だけでなく、積極的なビジネスメリットを提供します。

  • 業務効率の飛躍的な向上
    紙の契約書やハンコ出社をなくし、電子契約や電子署名といったソリューションへ移行することで、業務スピードが劇的に上がります。これは、データの真正性をデジタル技術で担保できるからこそ実現できることです。
  • コスト削減(取引コストの低減)
    郵送費、印紙代、保管スペースだけでなく、確認作業にかかる人件費などの「取引コスト」を減らす効果があります。
  • ブランド価値と競争力の向上
    「この企業からのデータや製品は安全で正しい」という評価は、顧客やパートナーからの信頼に直結します。逆に、セキュリティ事故やWebサイト(例えば採用情報ページやサイトマップなど)の改ざん疑惑が生じれば、企業の存続に関わるダメージとなります。
  • グローバルビジネスへの対応
    欧州のGDPRやデータ法をはじめ、世界的にデータ流通のルール(DFFT:信頼性のある自由なデータ流通)が整備されつつあります。国際的なトラスト基準に対応することは、海外市場へのパスポートとなります。

第3章 デジタルトラストの実現方法

3-1 技術的アプローチとツール(UNCITRALモデル法に基づく)

UNCITRALモデル法で定義された「トラストサービス」を具体的に実装し、信頼性を高めるには、適切な技術の導入と支援が不可欠です。

① 公開鍵基盤(PKI)と電子署名

現在、インターネット上の信頼を支える最も重要な技術の一つがPKIです。公開鍵と秘密鍵というペアの鍵を使い、「暗号化」と「電子署名」を行います。 電子署名は、紙の契約書における「印鑑と印鑑証明書」の役割を果たします。これにより、「誰が作成したか(本人性)」と「改ざんされていないか(非改ざん性)」を数学的に証明することができます。日本でも電子署名法により、一定の要件を満たす電子署名は手書きの署名や押印と同等の法的効力を持つとされています。

② タイムスタンプ

「いつ」そのデータが存在し、それ以降更新・改ざんされていないかを証明する技術です。知的財産の保護や、電子帳簿保存法への対応において重要な役割を果たします。

③ 電子書留配送サービス(e-Delivery)

デジタル空間において、データが「いつ」「誰から」「誰へ」送られたかを証明するサービスです。郵便における書留と同様の効力を持ち、UNCITRALでも重要なトラストサービスの一つとして挙げられています。

④ eKYC(オンライン本人確認)

スマートフォンなどを利用し、オンライン上で完結する本人確認手法です。犯罪収益移転防止法などの規制に対応しつつ、スムーズな顧客体験を提供するために不可欠なソリューションです。

3-2 組織文化とトレーニングの重要性

どんなに高度な技術や製品を導入しても、それを扱う「人」の意識が低ければトラストは崩壊します。デジタル証明基盤が「技術だけでなく、制度やルール、組織・体制などの集合体」であるように、デジタルトラストの構築には、技術と並行して組織文化の醸成というプロセスが必要です。

「疑うこと」をポジティブに捉える文化

フィッシングメールや偽サイトによる被害は後を絶ちません。従業員に対して、「怪しいと思ったら立ち止まる」「問い合わせて確認する」ことが推奨される文化を作る必要があります。これは単なるセキュリティ教育にとどまらず、情報の真偽を見極める「デジタルリテラシー」の向上を意味します。

法制度の理解とコンプライアンス

デジタルトラストは法律と密接に関わっています。電子署名法、電子帳簿保存法、個人情報保護法など、トラストに関する制度は頻繁に更新されます。法務・コンプライアンス部門だけでなく、現場レベルでも「何をしてはいけないか」「何が証拠になるか」を理解し、ポリシーを守ることが、企業を守ることにつながります。

第4章 デジタルトラストの未来

4-1 AIとブロックチェーンの役割

デジタルトラストの未来は、AIとブロックチェーンという二つの技術が鍵を握っています。

生成AIの「光と影」

生成AIは、業務効率化の強力なツールである一方、フェイク情報の量産という脅威ももたらしています。2026年に向けて、今後はAIが生成したコンテンツであることを明示する技術(オリジネーター・プロファイルなど)や、AI自身がフェイクを検知するソリューションの開発が進むでしょう。AIを使いこなしつつ、AIに騙されない仕組みを作ることが求められます。

ブロックチェーンによる「自律的な信頼」

ブロックチェーン(分散型台帳)技術は、特定の管理者がいなくてもデータの改ざんが事実上不可能であるという特性を持っています。サプライチェーン全体の追跡や、NFT(非代替性トークン)による所有権の証明など、中央集権的なトラストアンカーに依存しない、新しい信頼の形(分散型トラスト)を可能にします。

4-2 持続可能なデジタルトラストの構築

最後に、トラストは「一度構築すれば終わり」ではありません。デジタル技術の進化は速く、攻撃者の手口も日々巧妙化しています。

長期的な証拠力の確保

契約書や公的文書は、10年、20年といった長期にわたって保管され、いざという時に証拠として機能しなければなりません。暗号技術の危殆化(コンピュータの計算能力向上により暗号が破られるリスク)に備え、長期署名フォーマットの採用や、アーカイブシステムの整備など、「未来における信頼」も今のうちから設計しておく必要があります。

社会全体での連携(Co-Creation)

一企業だけでデジタルトラストを守ることは不可能です。政府、業界団体、テクノロジー企業が連携し、標準的なルールの策定や情報の共有を行う取り組みが不可欠です。私たち「Digital Trust Hub」もまた、最新のニュースやインタビューを通じて、デジタル証明基盤の整備と社会全体のトラストリテラシー向上に貢献し、皆様を支援していきます。

おわりに

「真実」が曖昧になりがちなデジタル社会において、トラストは私たちが安心して生き、ビジネスを行うための「命綱」です。 デジタルトラストへの理解を深め、適切な対策を講じることは、御社のビジネスをリスクから守るだけでなく、デジタル時代における新たな成長の基盤となります。

本サイト「Digital Trust Hub」では、今後も専門家のインタビューや最新の制度解説、製品・ソリューションの紹介を通じて、皆様の「信頼構築」の旅をサポートしてまいります。まずは、身近な業務のデジタル化と、その裏にある「信頼の仕組み」を見直すことから始めてみませんか。

【関連情報】

・デジタル庁:トラスト

https://www.digital.go.jp/policies/trust

・デジタル庁:DFFT(Data Free Flow with Trust:信頼性のある自由なデータ流通)

https://www.digital.go.jp/policies/dfft

・総務省:トラストサービス

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/ninshou-law/law-index.html

・デジタル証明研究会:年次レポート 2024(論点整理と提言)

https://digitalproof.jp/wp-content/uploads/2025/05/eb343437c3b0ee5a36c7239725a937e5.pdf

・デジタルアーキテクチャ・デザインセンター(DADC):トラスト入門

https://www.ipa.go.jp/digital/architecture/Individual-link/nl10bi00000038ai-att/trust-basics.pdf

・UNCITRAL(国連国際商取引法委員会):UNCITRALモデル法

https://uncitral.un.org/en/mlit